「うちの部活では毎年〇〇をするのがルールなんだよ!」
「この会社では、新人は〇〇をするのがルールなんだ。」
こんな言葉を聞いたことがありませんか?
私たちが部活や会社など、新しいコミュニティに入った人がよく聞く言葉ですね。
私も、大学のサークルの新歓でテキーラを一気飲みするのがルールだと言われた時は度肝を抜かれました。まず未成年ですし、更には嫌がれば場の空気を壊すというおまけつき。まぁひどい話です。
日本ではこのような大して意味のないルールが多く見られます。このように、あるコミュニティの中においてのみ通用する独自ルールを頻繁に作るような状況を指して、「日本人はすぐに村社会をつくる」と言われることもあります。
なぜ日本人は村社会を作りたがるのか。今回はその理由を見ていきましょう。
「村社会」の原因は宗教がないこと?

欧米におけるキリスト教、共産主義国におけるマルクス主義、イスラム圏におけるイスラム教。
世界の様々な場所、コミュニティにはその主軸となる一貫した思想や理念があります。そう、日本を除いては。
これこそが、日本人が村社会を作り、独自のルールをそこに採用したがる理由なのです!
もちろん、日本にも伝統的な思想として「神道」がありました。この神道という思想は、他の宗教とは大きく異なるある特徴があります。それこそが、他の思想の良いところを柔軟に吸収し、共存するということ。
つまり、何でもウェルカムなわけです。
例を挙げると、日本では年が明ければ初詣に神社へ行き、お盆には仏教の経典を読む、冬になればクリスマスを心待ちにする等、宗教・思想的に全く一貫性がないことがわかります。
言うなれば浮気です。こんなこと、海外の敬虔な宗教徒からすれば信じられないことです。「私マヨラーなんだ!」と言いながら平然とから揚げにケチャップをつけているようなものです。
このような犯罪級行為を平然と国民総出で行う。そう、日本は浮気大国なのです!
しかし、「こういったメチャクチャさをも特徴だ」として受け入れるのが神道なのです。そして、神道のこの考えこそが日本の村社会形成の大きな原因なのです!
会社などは非常にいい例です。A社では毎日のように飲み会があり、新人が裸踊りをさせられているとしましょう。
それを見た時、きっとあなたは信じられないと感じるでしょう。
しかし、A社の社員は不思議なことにその状態を何もおかしいと思わないのです。そして、それを久々に会った高校の同級生などの外部の人に強要することもありません。なぜなら、この状況がA社の中でしか通用しないと無意識に理解しているからです。
信じられないかもしれませんが、このようなあるコミュニティの中と外の顔の使い分けを器用にこなせるのは日本人以外の民族ではなかなかいません。これを可能にするのが、何でも受け入れる神道を伝統とする日本人性なんですね。

日本国民は統一性がない?
この神道の思想であるあらゆるものに寛容というのはいい意味で語られることが多いです。しかし、それは裏返すと一貫した軸を持たないということも意味します。
実は、日本の政府はこの不統一性を理解していて、それを正そうとした過去があります。例えば、憲法。この憲法は明治政府が天皇から国民全員に与えたものとして発布されました。
天皇を御旗として、その下で日本国民に同一の価値観や倫理観を持たせようとしたんですね。
しかし、これって実はすごくおかしなことなんです。
どういうことかというと、憲法というのはふつう国民が政府に対して要求し、約束させるものなのです。歴史的に見ても、マグナカルタをはじめとした憲法などの法規は、王政の独裁政治に歯止めをかけるべきという動きから誕生しています。
例えるならば、ジャイアンが「お前らはこれを守れ!」といって勝手に決まりを作って他の人を思い通りに動かそうとしたのが日本です。それに対し、他の国ではのび太やスネ夫が「みんなでこれを守って遊ぼうよ!勝手はしちゃだめだよ?」とジャイアンに約束させているんです。
なぜ日本ではこんなことが起きたのか。それこそ、一貫した考えを持たない日本国民に対し、天皇崇拝を軸とした思想を押し付けて統治しようとしたことに他なりません。
残念ながら、この政策は大失敗に終わってしまうわけですが……。
バラバラな日本人はどうすべきか
先ほど書いた通り、日本人に統一性がないことを憂いた政府はそれを修正しようと頑張りました。
しかし、この政策は失敗し、日本国民はさらに様々な思想を受け入れ、どんどんバラバラになっていきます。
今においても、私たち日本人の統一性、いわゆるアイデンティティは完全に確立されているとは言い難いです。「日本人らしさ」が何なのか、今でも探している途中なんですね。
こうした自分のぐちゃぐちゃさを無意識に知っているからこそ、自分にとって居心地のいいコミュニティの中でルールを作り、自分たちらしさを作ろうとする。
これこそが日本でよく見られる村社会の正体なのです。
このような状態が好ましくないことは明らかですが、私たちはどうすればよいのでしょうか?
まぁ、もう日本人がみんなで一斉に同じ軸を持つということは不可能でしょう。諦めた方が賢明です。
それよりも軸を持たないそれぞれ個人が、「個人の軸」を形成することが大切なのではないでしょうか。
自我にはっきりとした独立性を持つために、まずは自分の常識を疑うことが大切です。いかに自分が偏見を持っているのか、自分の考えが本当に正しいと思えるのか。そうした突き詰めを行うことで、個人に軸が生まれます。
その根底には神道的考え方から導かれたという背景があることから、多くの人の中で生まれた「軸」にもある程度の共通点が生まれても不思議ではありません。
多くの日本国民が村社会への依存から離れ、自分の中に軸を持てた時、日本人ははじめて統一された日本人らしさを得ることができるのではないでしょうか。
個人個人にしっかりとしたアイデンティティを芽生えさせることこそが、この村社会をすぐに作りたがる日本人的考えを変えることに一役買ってくれるのだと、私は考えます。
